渋沢栄一の「論語講義」 | 書評

渋沢栄一は「論語」を一生の規範にしていた

渋沢栄一は、2024年から一万円札の肖像画となる人物です。
だからという訳ではありませんが、最近僕の中で、渋沢栄一がちょっとしたブームになっています。

その渋沢栄一が、「論語」を一生の規範にしていたことを何かのきっかけで知りました。

本屋の検索システムで渋沢栄一の著書を調べていたら、たまたまこの本が見つかったので、読んでみることにしました。

渋沢栄一の論語講義はもともと、講談社学術文庫版で7冊分の大著だったようです。本書はその中から、読みどころを選りすぐって訳出したとのことで、大著の全容を手軽に知ることができます。

全体を通して難しいところはなく、読み易い本でした。

孔子であっても己の志を実現できなかった

論語が、「学びて時にこれを習う」から始まることは知っていました。

その次の次くらいに出てくる言葉は、「人知らずして慍(いきどお)らず、また君子ならずや(P.25)」です。これは、「人から認められなくても、そんなことは少しも苦にしない。これこそ本当の君子(くんし=理想の人物)ではないか」という意味です。この文言もかろうじて知っていました。

でも、昔、これを読んだときの僕は、「ふうん。昔の中国では、君子であっても、認められないことがあったんだな」くらいにしか思いませんでした。
僕にとっての論語は、遠い昔の遠い国に住んでいる人が、出来事を淡々と記録した少し味気ない文書という位置づけでしかありませんでした。

ところが、栄一の講義では、「わたしは及ばずながら八十四歳の今日まで、『論語』のこの教訓を実践してきた」と、いきなり書いてありました。これにはびっくりしました。

渋沢栄一と言えば、470社近い起業の創設・発展に携わった人です。
やることなすこと全てが上手く行って、社会や企業の中における地位も思いのままで、常に日の当たるところにいて、人から注目を受け続けているような人だとばかり思っていました。でも、その栄一にしても、自分がしたことが他人に知られないこともあったということです。

この数行の部分によって、おそれながら孔子や渋沢栄一が、急に身近な、生き生きとした存在に思えるようになりました。

孔子について付け加えると、本の最後に置かれた論語総説のところで、「その後、孔子は諸国をまわっていろいろな君主に仕えたが、いずれも己の志を実現するまではいかなかったP.258)」とあります。
2,500年間も語り継がれている孔子であっても、自分の思うような地位に就けなかったり、夢を実現することができなかったんですね。

僕自身、現在の自分自身の環境について、いろいろと思うことがあります。でも、孔子や栄一でさえ、なかなか思うようにいかないこの世の中ですので、今後は、「人の力ではどうしようもない偉大な力の存在を認め、これを「天命」として謙虚と信頼の気持ちで向き合いつつ、自分の努力を徹底してゆけば必ずよい結果がくるのだ(P.69)」という教えを信じていきたいと思います。

渋沢栄一と岩崎弥太郎はどちらも成功者なのに考え方は相容れないところが興味深い

論語講座の中には、栄一と関係があった人物のエピソードがしばしば登場します。
そんな中で、岩崎弥太郎とのこんなエピソードがありました。

「根本において意見が相違し、私は合本主義を主張し、弥太郎氏は独占を良しとする考えを主張する。両者には相容れないところがあって、明治12、13年以来激しい確執を生じるようになった(P.123)」

岩崎弥太郎と言えば、三菱の創始者です。現在も続いている株式会社を多数残しています。その点では、栄一と一緒です。

しかし、栄一から見ると、弥太郎とは考え方が違っていたということです。

違う考えを持っていても、どちらも成功者であることは間違いありません。こういうところが、凡人には窺い知れない天命ということなのかもしれません。

「君子は器ならず」を考えてみる

個人的に一番考えさせられている言葉は、「君子は器ならず(P.51)」でした。

僕は技術者なので、技術を極めたいと思っています。
でも、この言葉の意味は、「徳を治めた者が人を使う人間であって、技術や専門知識を治めた者(器)が、人に使われる人間ということだ」なのだそうです。

人を使う側の人間の方が、一般的には優れた人、偉い人と見なされます。
ただ、人を使う側の人間と使われる側の人間で、どちらが幸せかとなると、悩ましい問題だと思います。

例えば、野球の監督と選手とどちらが幸せでしょう?

監督は、選手を試合に出退場させる権限を持っています。人を使う側の人間です。
選手は、監督から出場の許可を得ないと試合に出ることができません。人に使われる側の人間です。

でも、一旦試合に出ることができたら、大活躍できる可能性を持っています。そもそも、見ているよりプレイする方が楽しくありませんか?知名度や年俸だって、監督より高い場合もあります。監督のファンの数より、選手のファンの数の方が多いことは珍しくもありません。

あなたに十分な才能があった場合、監督になりたいですか?選手になりたいですか?
野球でなくて、バレーボールやカーリングでもいいです。航空会社の社長と飛行機のパイロットのような関係で考えることもできます。

極端な話、社長でもない限り、使われる側の人間ですよね?その社長にしたって、株式会社の場合、形式的には株主に使われていることになります。

結局、良く分かりません。天命に従っていればいいのかな。

時代や環境に合わせて解釈を変えている

栄一は、論語を咀嚼して理解し、応用的に使っているようです。

例えば、八佾(はちいつ)第三で、「君子は、人と争わないものだ」とされています。でも、栄一は「争いは決して絶対に避けるべきではないだけではなく、世間を渡っていくうえでとても必要なものであると信じている(P.62)」と述べています。

また、「唯だ女子と小人とは養い難しとなすなり。これを近づくれば則ち不遜、これを遠ざくれば則ち怨む(P.239)」と書いてあることについては、時代が違うので、現代に応じた解釈をすべしとしています。

孔子といえども人なので、間違いはあるでしょうし、時代背景から発せられた言葉もあることでしょう。現代に即さない教えがいくつかあったとしても、それをもって論語全体の価値を判断してはならず、論語全体を知って、その根底を流れる思想を把握した上で、現代に即さない教えを慮(おもんぱか)る、栄一のような考え方をしないといけないようです。

栄一は論語に登場する人物のイメージを頭の中にいきいきと思い描いているようである

栄一は、孔子と弟子の問答の場面を常に頭の中にいきいきと思い描いているようです。そのような場面が講義のあちらこちらに見当たります。

栄一はそのイメージを、現代の自分の周囲に置き換え、次の自分の行動に応用しているようです。

少し違う話ですが、私の存じ上げている方の中で、最も成功されている方の一人にキリスト教徒の方がいらっしゃいます。その方は聖書を栄一が論語を使うように使われていました。

即ち、その方は、登場人物の心情や神様との関係をこと細かに想像し、物語に仕立てて、周囲の人に伝えていました。聖書の1ページが、物語になると10ページにもなっていました。

論語や聖書は、そのような使い方をして、初めて役に立つ書物なのかもしれません。

まとめ

論語の教えの場面をイメージするとともに、その教えを咀嚼し、自分の頭の中で考えながら実生活に生かしていくということが大切なようです。

実際にそれで成功を収めた渋沢栄一というお手本がいます。

機会を見つけて、論語を通して読んでみようという気持ちになりました。


渋沢栄一:渋沢栄一の「論語講義」、株式会社平凡社、2010、ISBN978-4-582-85546-3

 

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